世界大百科事典(旧版)内の小野洋子の言及
【パフォーマンス】より
…パフォーマンスを行うグループや場所は流動的であり,61年にジョージ・マチューナスGeorge Maciunasがパフォーマンスの専門誌を作るために考え出した〈フルクサスFluxus〉(雑誌は実現しなかった)は,やがて当時のパフォーマーを横断的に結びつける国際的な組織の名になったが,ラテン語で〈流れ〉を意味するfluxusと英語のflux us(われわれを融合する)とをかけたこの語は,当時のパフォーマーの流動的な関係にふさわしいものであった。このことは,ニューヨーク美術界の刺激を受けて活気づいていた〈読売アンデパンダン展〉(日本アンデパンダン展)出品作家たちの活動と,ケージに学んだ一柳慧(いちやなぎとし)や小野洋子らの媒介でしだいに日本にも形成されはじめたさまざまな芸術グループにもあてはまる。ともに1960年創立の〈グループ音楽〉(小杉武久,刀根康尚,塩見千枝子ほか),〈ネオ・ダダイズム・オルガナイザーズ〉(篠原有司男(うしお),吉村益信,風倉省作ほか),62年10月の車中パフォーマンス《山手線事件》や63年5月の街頭パフォーマンス《第一次ミキサー計画》のメンバーによる〈ハイレッド・センター〉(赤瀬川原平,中西夏之,高松次郎ほか)などは,互いに相互関係をもっただけではなく,〈暗黒舞踏〉の土方巽(ひじかたたつみ)や実験映画グループ〈ヴァン映画科学研究所〉(足立正生ほか)などとも,また海外の〈フルクサス〉とも横断的な関係をもった。…
【レノン】より
…ビートルズの中心的メンバーとして活躍する一方,画才にも恵まれ,ノンセンス文学の佳品たる挿絵入り短編集2冊(《In His Own Write》1964,《A Spaniard in the Works》1965)を残している。1966年に知り合った小野洋子と69年に再婚,同年アムステルダムのホテルで平和運動として7日間の〈ベッドイン〉を行うなど,多くの話題をまき,20世紀後半のサブカルチャーの英雄の観があったが,80年ニューヨークで凶弾にたおれた。【高橋 康也】。…
※「小野洋子」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」