世界大百科事典(旧版)内の山背画師の言及
【飛鳥美術】より
… このように太子時代の対外関係は,百済より新羅へと大転換したが,そのかげにあって飛鳥美術に実質的な影響を与えている高句麗の存在も看過しえない。憲法十七条制定の604年,黄文画師(きふみのえかき)や山背画師など,画師の区分が定められたが,はじめに高句麗出身の黄文画師をかかげるところに,その存在の大きさがうかがえる。《日本書紀》によれば610年高句麗王は,彩色・紙墨の技術者である僧曇徴を貢上するが,これは日本における画材の需要増大を反映しているとともに,その技術が高句麗からもたらされた点が注目される。…
【画師(絵師)】より
…一般に絵をえがくことを生業とする人,またはその職業をさすが,近代以前には社会的地位や身分をもあらわす。《日本書紀》によると,黄文(きぶみ)・山背(やましろ)両氏族が604年(推古12)に初めて〈画師〉を称したことが知られる。この7世紀初頭における画師は,すなわち,古代大和朝廷に奉仕していた特定氏族の世襲化した技芸に対して公式に与えられた,官職としての姓(かばね)であった。やがて,官営事業が活発になると,あらたに倭(やまと),高麗(こま),簀秦(すはた),河内などの画師姓諸氏族が活躍するようになる。…
※「山背画師」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」