朝日日本歴史人物事典 「布屋次兵衛」の解説
布屋次兵衛
生年:元禄11(1698)
江戸時代の商人。本姓田中,名は遒延。堺戎之町の人。堺の浜は遠浅であり,港を維持するには常に浚渫が必要だった。特に宝永1(1704)年の大和川付け替え後の土砂の流入による港の埋没は著しく,享保の初めころには大坂や兵庫港に廻船を移す問屋が多くなり堺の町は衰退した。これを深く憂えた次兵衛は,防波堤を築いて船舶の入港を容易にしようとした。享保12(1727)年,細谷治左衛門と共に堺奉行に訴願したが容れられず,次いで江戸出訴を決意。細谷は当時船年寄役勤務中のため出堺できなかったので,布屋のみこの年5月出府したが許可されず,11月には31歳で病没する。この直後の12月には許可がおり,次兵衛の舅谷善右衛門の出資と努力により,翌年5月起工した。港湾改修は,さらに江戸浅草の吉川俵右衛門に引き継がれ,文化7(1810)年にはほぼ完成する。港とともに歩んできた堺市では,その功労者として次兵衛,俵右衛門を推薦し,大正8(1919)年には従五位が追贈されている。<参考文献>『堺市史』
(吉田豊)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報