世界大百科事典(旧版)内の帝国美術院主催美術展の言及
【明治・大正時代美術】より
…万は強烈な原色の大胆な使用によって,自然模倣の態度を捨て,《裸体美人》(1912),《日傘の裸婦》(1913)のような,自己・自我の主張をめざすフォービスムや,ものの形を基本的な幾何学的形に分解して再構成する《もたれて立つ人》(1917)のようなキュビスムを本格的に消化した日本で最初の作品を描いたが,春陽会にあっては文人画と油絵の融合をめざす表現主義風の試みに打ち込んだ。 外光主義のマンネリズムに陥っていた文展は,1919年に保守的な体質を改善しようと,帝国美術院主催美術展,すなわち帝展に改組されたが,洋画部は在野の二科会,春陽会のような人材を生み出さなかった(帝国美術院)。有力画家として,日本画では菊池契月,上村松園,鏑木清方,松岡映丘,平福百穂らが,洋画では児島虎次郎(1881‐1929),牧野虎雄(1890‐1946),中村彝(つね),前田寛治らが頭角を現した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」