世界大百科事典(旧版)内の平南線の言及
【南浦】より
…もとは一寒村であったが,日清戦争のとき日本艦隊が停泊地として利用したことを契機に平壌市の外港にあたる貿易港として発展した。1897年開港地となり,1910年に平壌と南浦を結ぶ平南線が開通した。その後周辺から豊富に産する銅鉱やケイ砂を原料とする製錬,ガラス工業が勃興するようになった。…
【平壌】より
…李朝時代には人口が2万人ほどに達したとみられ,ソウル,開城につぐ第3の都市であった。 日本の支配下に入って,1906年の京義線(京城~新義州)の開通を皮切りに,大同江下流方面への平南線(至南浦),日本海沿岸地方へ通ずる平元線(至元山),鴨緑江流域方面へ至る満浦線(至満浦)などが平壌を基点に整備され,平壌は北朝鮮の軍事,行政,経済の中心都市として急速に発達した。すなわち,1930年には人口が15万人以上になり,ソウルに次ぐ大都市となった。…
※「平南線」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」