世界大百科事典(旧版)内の平原派の言及
【国民公会】より
…1792年9月21日の第1回会議から95年10月26日の解散まで,3時期に分けられる。第1期は,約750名の議員のうち過半数を占める中間派(〈平原派la Plaine〉とか〈沼派le Marais〉と呼ばれた)をはさんで右派のジロンド派と左派の〈山岳派〉が対立した時期である。はじめジロンド派は山岳派に対して優勢であったが,対外戦争の敗北,国内の反革命の激化と社会経済危機などの内外の革命の危機に有効に対処しえず,しだいに中間派の支持を失い,また立憲君主派や王党派との妥協をはかったために,93年6月2日,パリ民衆の包囲のなかで議会から追放された。…
【山岳派】より
…しかし,93年以降には,ジャコバン・クラブはもっぱら山岳派を支持してその社会的基盤になったから,両者は表裏一体の関係にあったといえる。 山岳派は1792年の秋から右翼のジロンド派と激しく対立し,両派の中間には平原派または沼沢派と呼ばれる浮動的グループがあった。山岳派とジロンド派は,出身階層の点では大きな差異はなく,社会的な立場の点でも,ジロンド派がとくに貿易業者や大商人と強く結びついていたのに対して,山岳派はそれよりやや下の中産層と結びついていたという程度の差しかなく,両派はいずれも基本的にはブルジョアジーの利害を代表していた。…
※「平原派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」