世界大百科事典(旧版)内の得宗専制の言及
【安達泰盛】より
…政敵泰盛を倒した頼綱は,これを好機として,武蔵,上野の外様御家人をも殺したので,乱は常陸,信濃,三河,美作,因幡に及び,筑前の岩門(いわと)合戦をも引き起こしている。このときをもって〈得宗専制〉が確立し,頼綱を中心とした御内人勢力が幕政を壟断(ろうだん)して恐怖政治を敷いたが,93年(永仁1)頼綱自身も貞時に殺された。また泰盛は仏書刊行や高野山の町石建立に尽力したことでも有名。…
【得宗】より
…しかし56年(康元1)11月,時頼は出家して執権を辞したあとも幕政を掌握していた。このときの時頼の権力の根拠は執権職にはなく,得宗という地位にあったものと考えられ,したがってこの時期に得宗専制が成立したと見ることもできる。 得宗家の権力伸張に伴って,その所領は得宗領または御内御領,御内所領と呼ばれて一般所領と区別され,一定の権威を持つようになった。…
※「得宗専制」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」