世界大百科事典(旧版)内の御饌都神の言及
【伊勢神道】より
…伊勢神宮でも,鎌倉初期以来武士の神領奉献,僧侶の参詣が相ついでおこなわれ,種々の刺激を受けた結果,律令制下ではもともと神宮は仏法を禁忌する定めであったにもかかわらず,鎌倉時代後期には,神宮の神徳は広大で,〈我国の仏法偏(ひとえ)に太神宮の御守護によれり〉との主張が神官によりなされるに至った(《沙石集》)。ことに伊勢両宮のうち外宮(豊受大神宮)は祭神が御饌都(みけつ)神であるところから万民の食物をつかさどる神徳ありとし,ひいては農耕以下生産の守護神なることを強調して,信徒を広く集める勢いでは内宮(ないくう)をしのぐほどに立ち至ったらしい。 1282年(弘安5)内宮造営料木のことに容喙(ようかい)して外宮禰宜(ねぎ)の一人度会行忠は職を免じられたが,これを機に京都に移り住み広範な教養を身につけたらしく,自著《二所太神宮神名秘書》を亀山上皇に奏覧し,その功により87年復職した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」