世界大百科事典(旧版)内の忠宣王の言及
【高麗美術】より
… 高麗の鑑賞画は,金富軾,金君緩,李仁老などの墨竹,鄭知常,車原頫などの墨梅,そして,宋の徽宗に激賞された李寧(りねい)などの実景描写が知られる。また,忠宣王(在位1308‐13)は,万巻堂を構え,閻復,姚燧,趙孟頫,虞集のように《元史》に名を残したすぐれた文人画家と遊び,さらに,江南の山水画家朱徳潤と友誼をむすび,江南水墨画の高麗への途をひらくなど,中国への傾斜がいちじるしい。
[彫刻]
仏像に優れた作品が多く,鉄造,銅造,石造,塑造,木造乾漆造など多彩な素材を用いたが,鉄造,銅造,石造に優品がある。…
【忠烈王】より
…彼は,元の公女を正妃とし,元の風俗・習慣の導入に努め,日本侵略の助勢や官制の大規模な改定ほかの元の要求を甘受しながら,元との一体化を推進して,王権の安定を図った。しかし,正妃の没後,それぞれに元の力を背景にした,高麗朝廷内の国王派と世子派の対立が表面化し,1298年世子の即位(忠宣王)と王の復位がめまぐるしく行われた。以後も両派の対立は続き,元の信任を背景に忠宣王がしだいに勢力を伸長していく中で忠烈王は没し,慶陵に葬られた。…
※「忠宣王」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」