世界大百科事典(旧版)内の愛国者協会の言及
【十一月蜂起】より
…しかし保守派はロシア帝国からの分離はまだ考えておらず,最終的な問題解決には皇帝との交渉が不可欠であると考えていた。モフナツキMaurycy Mochnacki(1803‐34)ら過激派は,直ちに臨時政府を発足させて対ロシア戦争に踏み切るべきであると主張し,12月愛国者協会を結成して行政会議に圧力をかけた。行政会議は解散し,チャルトリスキを首班とする臨時政府がこれに代わって登場した。…
【ポーランド】より
…そもそも憲法のすばらしさをたたえる演説をした最初のセイムでアレクサンドル1世は,憲法を無視して政府の予算案を提出しようとしなかったのである(1818)。ニコライ世にいたっては,デカブリストとの接触ゆえに反逆罪に問われていた愛国者協会Towarzystwo patriotyczneのリーダーが憲法の規定に従ってセイムで裁かれたとき,判決が軽すぎるとしてこれを無視し,彼らを勝手にシベリアに送ってしまった(1828)。(2)十一月蜂起 1830年,ワルシャワ歩兵士官学校のビソツキPiotr Wisocki(1797‐1874)を中心としたグループによる十一月蜂起は基本的に,こうしたロシア皇帝の専制的なやり方に対して特権擁護のためにシュラフタが起こした蜂起であった。…
※「愛国者協会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」