世界大百科事典(旧版)内の成周の言及
【河南[省]】より
…伝説上の夏王朝の遺跡もまたこの付近にあると考えられていたが,近時,鄭州と洛陽の中間,登封(とうほう)県の王城崗に比定する説が出されている。 周は今日の陝西省の西安地方から起こり,殷を滅ぼすと,洛陽に新しい政治的首都として洛邑を建設して東方統治の基地とし,その東には別に殷の遺民を住まわせるために成周を築いた。のち周の本拠が西戎に襲われ,周の平王は洛邑に遷都して春秋の世となった。…
【周】より
…后稷の15世後の子孫の武王が,前1050年ころ殷王帝辛(紂王)を牧野(河南省淇県)で破り,殷を倒して,王朝を創設した。この王朝は前771年に一度滅び,前770年東の成周洛邑(河南省洛陽市)に再興され,前256年第37代赧王(たんおう)のとき秦によって完全に滅ぼされる。前771年を界として,それ以前は,都が西の西安西郊にあったので西周時代,以後は都が東にうつったので東周時代(春秋戦国時代ともいう)とよぶ。…
【洛陽】より
…前770年,犬戎(けんじゆう)に追われて平王が陝西の鎬京(こうけい)(西安南西郊)からこの地に遷都し,戦国末の前256年に秦に滅ぼされるまで,東周の国都として存続した。秦代には三川郡の治所,前漢代には河南県の治所が王城の地に,雒陽県(漢は火徳を標榜して水を忌み,洛字を改めた)の治所が周の下都(成周)の地に置かれた。後漢では後25年(建武1)再び雒陽が国都に定められ,南北9里東西6里の城郭規模を有したので九六城と称せられた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」