戸田忠太夫(読み)とだ・ちゅうだゆう

朝日日本歴史人物事典 「戸田忠太夫」の解説

戸田忠太夫

没年:安政2.10.2(1855.11.11)
生年:文化1.6(1804)
幕末の改革派水戸藩士。諱は忠敞。亀之助,銀次郎,忠太夫と称し,蓬軒,清洲と号す。戸田忠之と安島信可の娘の長男。安島帯刀は弟。文政12(1829)年,藩主徳川斉脩の継嗣として徳川斉昭を擁立する運動に参加。斉昭襲封後,江戸通事,累進して天保11(1840)年に執政,藤田東湖と藩の天保改革中枢を形成。弘化1(1844)年5月に斉昭が隠居謹慎に処せられると免職蟄居。同4年,隠居謹慎,嘉永5(1852)年閏2月に処分解除。6年に幕府海防掛,安政1(1854)年6月,執政に復帰,翌2年の安政大地震で江戸藩邸で圧死。東湖らと共に幕府海防参与の斉昭のブレーンを務めたが,彼らの死後,斉昭の意見は精彩を失ったという。

(吉田昌彦)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

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