教皇の不可謬性(読み)きょうこうのふかびゅうせい

世界大百科事典(旧版)内の教皇の不可謬性の言及

【バチカン公会議】より

…(1)第1バチカン公会議(1869‐70) 1864年12月に近代諸思想糾弾のシラブスSyllabus(誤謬表)を公表する直前ごろから,ピウス9世みずから〈近代諸思想の害毒に効果的治療手段を提供するため〉秘密裏に準備し,65年3月準備委員会を設置,67年6月公表,68年6月召集した公会議。69年2月イエズス会の《チビルタ・カットリカCiviltà Cattolica》誌に,自由主義カトリック者でないフランスの正統カトリック者たちは,公会議が長い論議を避けて短期間に終結し,教皇の不可謬性(無謬性)がただ教皇からの宣言によって信仰個条に採択されることを望んでいるとの記事が載ると,この安易な考え方に対する西欧各国の進歩的司教・神学者たちの批判が高まり,教皇が果たして不可謬か否かの議論が沸騰した。69年12月8日開会の会議には議員資格者1084名のうち774名が参加し,うちアジアの代表は41名,大洋州18名,アフリカ9名を数えたが,いずれも欧米人司教であった。…

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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」