文化史的民族学(読み)ぶんかしてきみんぞくがく

世界大百科事典(旧版)内の文化史的民族学の言及

【文化圏説】より

…1904年におけるF.グレーブナーの《オセアニアにおける文化圏と文化層》,H.アンカーマンの《アフリカにおける文化圏と文化層》の講演,さらに1911年のグレープナーの《民族学方法論》において,文化圏説は確立し,W.シュミットとW.コッパースは《民族と文化》(1924)において全世界にまたがる文化圏体系を設定した。シュミットやコッパースは,その学問を文化圏説とは呼ばず,文化史的民族学と称した。グレープナーやシュミットの文化圏説に積極的に賛成する民族学者は,ドイツやオーストリアにおいても必ずしも多くなく,歴史民族学的立場にあっても文化圏体系に批判的な学者(たとえばハイネ・ゲルデルン)も少なくなく,30年ごろから文化圏説の危機が叫ばれ,54年シュミットの死とともに完全に崩壊した。…

※「文化史的民族学」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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