世界大百科事典(旧版)内の日露修好条約の言及
【日露和親条約】より
…1855年2月7日(ロシア暦1月26日,安政1年12月21日)下田で締結された日露の国交を開いた条約。日露修好条約,安政条約などともいう。ロシア側全権の海軍中将プチャーチンは1852年10月出発以来,帰国までに3年2ヵ月を費やして使命を達成した。…
※「日露修好条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
…1855年2月7日(ロシア暦1月26日,安政1年12月21日)下田で締結された日露の国交を開いた条約。日露修好条約,安政条約などともいう。ロシア側全権の海軍中将プチャーチンは1852年10月出発以来,帰国までに3年2ヵ月を費やして使命を達成した。…
※「日露修好条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...
4/12 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
4/12 デジタル大辞泉を更新
4/12 デジタル大辞泉プラスを更新
3/11 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
2/13 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新