明治6年10月の政変(読み)めいじろくねんじゅうがつのせいへん

世界大百科事典(旧版)内の明治6年10月の政変の言及

【大久保利通】より

…幕末,明治初期の政治家。西郷隆盛,木戸孝允と並んで〈明治維新の三傑〉といわれる。薩摩藩士大久保利世の長男に出生。若年,開国後の緊迫した世情をうけて,薩摩藩尊王攘夷グループのリーダーとなり,1859年(安政6),大老井伊直弼(いいなおすけ)襲撃を計画したが未遂,しかし,これをきっかけに藩政実力者の島津久光の知遇を得て側近に抜擢(ばつてき)され,尊攘論から公武合体論に転向した。62年(文久2),久光の公武合体・幕政改革の運動に参画,一橋慶喜を将軍後見職に,松平慶永を政事総裁職につけるのに成功し,その名を広く天下に知られるようになった。…

【木戸孝允】より

…幕末・明治初期の政治家。大久保利通,西郷隆盛とともに明治維新の三傑と称される。長州藩出身。初め桂小五郎のち木戸貫治ついで準一郎,孝允と改名,号は松菊。1849年(嘉永2)吉田松陰の門下となり,52年江戸に出て斎藤弥九郎の塾で修業。やがて尊王攘夷運動に参加し,60年(万延1)井伊大老暗殺直後に水戸藩士西丸帯刀(たてわき)らと丙辰丸盟約を結んだ。尊王攘夷運動の隆盛期に長州藩を代表して諸藩人士と接触,ひろく知られるようになった。…

【士族反乱】より

…そしてそれは,ときには〈世直し〉の潮流と重なり複合的な矛盾による重層的危機を引き起こしていた。だが明治6年10月の政変(1873),すなわち,いわゆる征韓論の分裂による下野諸参議が,一方では民撰議院設立建白書を提出し,他方では士族反乱という形をとるに及んで,この士族反乱は組織的となり,佐賀の乱から西南戦争へと連なっていく。と同時に,この明治6年10月の政変を契機に士族反乱の件数は急増し,またそれ以前の反乱が藩(県)庁に向けられていたのに対し,以後のものは明治(中央)政府に対する大規模な反乱へと変貌する。…

【征韓論】より

…幕末・明治初年の朝鮮侵略論をいい,とくに明治6年(1873)10月の政変の原因がいわゆる征韓論争にあったことから,一般にはこのときの対朝鮮論をさすことが多い。幕末期の征韓論は佐藤信淵や吉田松陰などにみられるが,大島正朝(友之允,対馬藩)や木戸孝允(桂小五郎,長州藩)などの主張を経て,一方では勝海舟(義邦,幕臣)の欧米勢力に対する日清韓3国の提携構想となり,他方では戊辰戦争直後の木戸や大村益次郎(蔵六,長州藩)らの軍事出兵を背景とする征韓論となる。…

※「明治6年10月の政変」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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