朝日日本歴史人物事典 「晃親王」の解説
晃親王
生年:文化13.2.2(1816.2.29)
幕末維新期の宮廷政治家。伏見宮邦家親王の長子に生まれる。朝彦親王,彰仁親王,能久親王の実兄。2歳の年,勧修寺門跡を相続,親王宣下,8歳の年に得度して法名を済範とした。酒を好み,茶道,琵琶に親しむ。天保12(1841)年10月,西国に向けて出奔,姫路に至る。翌年7月,これが責められて親王・門跡を剥奪され,東寺で蟄居に処せられた。27歳の年である。安政5(1858)年,これを許される。文久3(1863)年10月,薩摩藩士高崎佐太郎(正風)の訪問を受け,時務策七十余条を示す。翌元治1(1864)年1月9日,島津久光,松平慶永,伊達宗城,徳川慶喜の建議により,還俗を許された。次いで山階宮の号を与えられ,改めて親王宣下を受けて名を晃とし,国事用掛に任命された。 関白二条斉敬,朝彦親王が徳川慶喜との提携を強めていくのに対抗して,近衛忠房,正親町三条実愛と共に,島津久光,松平慶永ら有志の大名との関係を深めた。長州処分問題並びに条約勅許問題については,諸侯会議を開催して協議すべきことを主張したが却下された。幕長交戦で征長軍の敗色濃厚であった慶応2(1866)年8月30日,中御門経之,大原重徳ら22名の廷臣が,二条斉敬,朝彦親王の罷免,諸侯会議の開催を求めて列参奏上したときこれを支持。そのため10月,蟄居に処せられた。翌慶応3年3月に許され,12月9日の王政復古の政変ののち議定に就任。次いで外国事務総督,外国事務局督を兼任したが,明治1(1868)年5月にこれを免ぜられてのちは新政府の官途につかなかった。東京遷都には反対で,明治10年以降は京都に在住,明治31年病没した。遺言には仏式葬祭のこととあったが,宮内省は難色を示し,枢密院での審議の結果,葬儀は従来通り神式で行われた。ちなみに,嫡男菊麿王は高層気象観測の施設として山階宮筑波山観測所を設立し,山階鳥類研究所を設立した芳麿は孫に当たる。<著作>『嘯月集』<参考文献>山階会編『山階宮三代』
(井上勲)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報