朝日日本歴史人物事典 「朝倉宗滴」の解説
朝倉宗滴
生年:文明6(1474)
戦国時代の武将。実名は教景。越前(福井県)の戦国大名孝景の8男。通称小太郎,のち太郎左衛門尉。文亀3(1503)年,従弟景豊の謀反に加わりながら結局惣領貞景方に寝返り,景豊に代わって敦賀郡司となる。以後越前,加賀(石川県)などの一向一揆を討つのに功績があり,貞景,孝景,義景の当主3代に重鎮として仕え,長く宗家を支えた。宗滴の談話を側近萩原某が筆録した『朝倉宗滴話記』には,18歳から79歳まで12度合戦に出て,うち3度は自分の刀で敵を討ったというような体験談や,「武者は犬と言われようと畜生と言われようと勝つのが一番」といった戦国武将の心得などが語られている。隣国若狭羽賀寺(福井県小浜市)には「自国他国共に名を後世に揚げらるべしと万人褒美せられおわんぬ」との記録がみえ(『羽賀寺年中行事』),禅宗の高僧月舟寿桂 は宗滴の武勇とともに「仁愛の博きこと,忠信の敦きこと」を称賛している。また文芸にも長じ,連歌師宗長との親交もみられる。
(河村昭一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報