世界大百科事典(旧版)内の桃華坊の言及
【一条兼良】より
…死に際しては〈日本無双の才人〉〈本朝五百年以来この殿ほどの才人は御座有るべからず〉と惜しまれたほど和漢の学に通暁し,みずからも菅原道真に勝れりとするほどの自負を抱き公家・武家が催す詩歌の席にはつねに出席を求められた。応仁の乱で一条坊門邸と膨大な和漢の書籍を集積した文庫桃華坊が焼かれたため,先に一部疎開させてあった蔵書とともに五男尋尊を頼って68年(応仁2)から77年(文明9)まで奈良へ難を避けた。戦乱が続いて生活が苦しかったので,伊勢や美濃へ旅行して大名に教学を授けて献金をうけたが,冬良の右大将拝賀のときにはその費用を得るために80歳に近い老体をおして越前の朝倉氏のもとへ出向いたほどである。…
※「桃華坊」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」