世界大百科事典(旧版)内の武蔵野合戦の言及
【上野国】より
…一方,南北朝内乱の初期において,足利方の優位が決定的となった14世紀中葉に,足利氏内部に尊氏と直義を二つの頂点とする勢力の対立が起こり,51年(正平6∥観応2)観応の擾乱(じようらん)が起こる。まもなく直義は殺されるが,直義党の上杉憲顕らは南朝方の新田義興・義宗と結んで蜂起し,尊氏方と戦い(武蔵野合戦),敗北して越後に逃れる。尊氏は宇都宮氏綱を上野・越後の守護に任命し,宇都宮氏は約10年間上野・越後を支配するが,上杉氏と結ぶ在地武士の反抗で支配は安定しなかった。…
【武蔵国】より
…51年(正平6∥観応2)の師直滅亡後,一時は直義党の上杉憲顕がこの地位に就くが,翌年の尊氏下向によって仁木頼章に代えられる。下向した尊氏は直義を殺し,府中,小金井で新田義興の軍を破るが(武蔵野合戦),南朝方の京都占領という事態を迎え,翌年7月に関東の大軍を率いて上洛する。しかし関東では旧直義党や新田党の抵抗がやまず,鎌倉公方(くぼう)足利基氏は入間川に在陣を余儀なくされる。…
※「武蔵野合戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」