朝日日本歴史人物事典 「江戸太夫藤十郎」の解説
江戸太夫藤十郎(2代)
生年:生年不詳
江戸中期の河東節の太夫。2代目十寸見藤十郎としても知られる。鍼医で本名は桜井東寿。初代十寸見河東の門弟で前名は夕丈といった。初代十寸見河丈とは共に初代河東のワキを語っていたが,初代河東の没後仲たがいをする。結局河丈が2代目河東を継ぎ,夕丈はおそらく享保16(1731)年ごろに,初代河東の本名を継いで江戸太夫藤十郎を名乗った(一説には初代の養子になったともいう)。初代河東の三味線を弾いていた初代山彦源四郎と組み,歌舞伎芝居で活躍した。特に18年1月江戸市村座で語った「富士筑波二重霞」は,河東節としては初めての「助六」で大当たりとなり,以後河東節の代名詞ともなる「助六」の土台をつくった。元文2(1737)年ごろ引退し,名を清海栄軒と改め,その後は松浦家に医師として召し抱えられたという。
(吉野雪子)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報