朝日日本歴史人物事典 「波多野稙通」の解説
波多野稙通
室町時代の武将。丹波国多紀郡八上城(兵庫県篠山町)城主。清秀の子。初名元清,将軍足利義稙の諱の1字をもらい稙通と名乗る。波々伯部氏ら周辺の国人を被官化して西丹波に勢威を広げた。大永6(1526)年10月,弟香西元盛が細川尹賢の讒言により細川高国に謀殺されたのを怒り,阿波国(徳島県)細川晴元と通じ,柳本賢治と共に反高国の兵を挙げた。以後高国方の軍勢と抗争を続け,高国政権の崩壊を促した。享禄1(1528)年,晴元方の三好元長が高国と和を計ろうとすると,賢治と共にこれを晴元に知らせた。同3年6月賢治は討死するが,稙通は,天文4(1535)年11月に北野社社務職領を違乱したことなどが史料にみえ,天文初年まで生存していたものと思われる。
(森田恭二)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報