世界大百科事典(旧版)内の田中清六の言及
【相川[町]】より
…1594年(文禄3)豊臣秀吉は朝鮮出兵のための財政をまかなうため上杉景勝に佐渡金銀山(佐渡金山)の積極的な開発を命じた。1600年佐渡は徳川家康の直轄領とされ,敦賀の豪商田中清六が,他3人の奉行人とともに金銀山を支配し,03年大久保長安がそれまで鶴子(つるし)にあった陣屋を相川に移転させた。それが17年(元和3)以後の佐渡奉行所である。…
【佐渡金山】より
…天文年間(1532‐55)鶴子(つるし)(現,佐和田町)で発見された銀山は,文禄(1592‐96)から慶長(1596‐1615)にかけて坑道掘りの技術の導入にともない,その中心が鶴子から相川に移った。1601年,代官となった田中清六は今までの山主(山先)による請山(1年間一山の請負)にかえて,間歩(まぶ)(坑区)ごとに短期間(文書には10日間としたものがある)を限って運上を入札させた。そのためおびただしい数の間歩が開発され,運上が競われたことも重なって,02年には運上銀の総額(物資の運上を含めて)は銀1万貫に達した。…
【佐渡奉行】より
…江戸幕府の遠国奉行。1601年(慶長6)徳川家康によって佐渡代官を命ぜられた田中清六は,上杉景勝の遺臣河村彦左衛門とともに佐渡を治めたが,翌年には吉田佐太郎,中川主税がこれに加わった。同年,年貢の5割増を命じたため百姓が江戸に愁訴し,代官は職を解かれ,03年には大久保長安が代官となった。…
※「田中清六」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」