朝日日本歴史人物事典 「石川和助」の解説
石川和助
生年:文化4(1807)
備中吉浜(岡山県笠岡市)生まれ。備後福山藩の儒者,家老。初め淵蔵,のちに関藤文兵衛と称す。号は藤陰。羅井久太郎の門人で頼山陽に師事する。藩主阿部正弘が老中となると諸藩との交渉役として奔走。幕末に蝦夷地が上知されるが,阿部の命を受けて安政3(1856)年東蝦夷地,翌年,西蝦夷地と樺太を調査し地勢,境界,戸口など15項目にわたる記録と産物会所の設置など蝦夷地経営方針案を『観国録』として作成。その後の蝦夷地政策に影響を与えた。老中阿部の死後は正教,正方,正桓の3代に仕え,藩主阿部正方の早世や鳥羽・伏見の戦における福山藩の危機に際し,藩の存続に努力した。東京で没。<著作>『蝦夷紀行』
(麓慎一)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報