世界大百科事典(旧版)内の石村洞3号墳の言及
【百済】より
…また,墳墓も高句麗式の積石墳から始まって,中国風の横穴石室墳・塼築墳などが採用されたが,この地域独自の甕棺墓は根強く存続し,栄山江下流域では,とくに盛行した。
[遺跡と遺物]
第2期の漢山城時代の遺跡には,慰礼城跡とみられる風納里土城の南方の石村洞3号墳のように,高句麗の将軍塚より大規模な積石塚(つみいしづか)がある。これらは,4~5世紀のころ,高句麗から南下してきた百済の建国者たちの古墳ともいわれている。…
※「石村洞3号墳」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」