磨上原の戦(読み)すりあげがはらのたたかい

世界大百科事典(旧版)内の磨上原の戦の言及

【蘆名氏】より

…中世陸奥国会津の領主。始祖は平姓三浦義明の子佐原十郎左衛門尉義連(よしつら)。平安期の本拠である三浦半島蘆名の地名を名字とする。義連が文治奥州合戦の功で源頼朝から会津を賜ったと伝えられるが,近年の説では鎌倉中期以降,北条氏の地頭代として会津に勢力をのばしたという。《葦名家譜》には1379年(天授5∥康暦1)蘆名直盛がはじめて会津に下向し,84年(元中1∥至徳1)黒川(のちの若松)を本拠に定めたとあるが,文書によれば蘆名一族はすでに南北朝内乱期から会津で活躍している。…

【伊達政宗】より

…79年三春城主田村清顕の娘愛(めご)姫(陽徳院)と結婚,84年家督相続。翌年父輝宗が二本松義継のために不慮の死をとげたのち積極的に領土拡張に乗り出し,86年安達郡を入手,88年田村家中を掌握し,89年蘆名義広を磨上原(すりあげがはら)の戦に大敗させて会津地方を収めた。同年須賀川城主二階堂氏を滅ぼし,石川昭光,白川義親らを服属させて,浜通りを除く現在の福島県,山形県置賜(おきたま)郡,宮城県および岩手県南部にわたる広大な勢力圏を築きあげた。…

※「磨上原の戦」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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