《私可多咄》(読み)しかたばなし

世界大百科事典(旧版)内の《私可多咄》の言及

【中川喜雲】より

…早くに京都に出て医師となった喜雲は,その医業による生活だけでは満ち足りないなにものかを,俳諧や狂歌で,さらには名所記などの仮名草子制作で満たしていたのではなかろうか。その鬱々たる毎日の根底には,〈昔予若冠のころ愚父とさがにまかりし事有,いにしへはこゝの嵐山の城主はわが先祖のものなりしが,今は城郭さへあとなく,石ずへ井戸のかたちばかりのこれり〉と自著《私可多咄(しかたばなし)》序に書き記したように,零落した家門の栄誉への執着と感傷があったと思われる。 1658年(万治1)刊行された処女作の名所記《京童(きようわらべ)》は,のちの名所記流行の先駆となるものであり,実地に足を運んだ者でなければ書くことのできない詳細な記述は,地誌には欠くべからざる実用性をもたらすものであった。…

【落語】より

…これは,フリーな立場にあった御伽衆の安楽庵策伝(あんらくあんさくでん)が,京都所司代板倉重宗の御前で口演したはなしの筆録で,武家に関する咄,板倉父子の裁判咄なども収められ,《昨日は今日の物語》にくらべると,庶民性,明朗性に欠ける。 これらの笑話本を契機として咄の趣味は普及し,《わらひぐさ》(1656)や《百物語》《私可多(しかた)咄》(1659)なども出版されるにおよんで,咄の筋をしゃべるだけでなく,身ぶり入りで都会人と田舎者との区別などを演じ分けるという,落語の基本ともいうべき立体的演出法もくふうされ,《囃(はなし)物語》(1680)の時代には,咄を架空の笑話と規定するにおよび,落語の基本的内容・表現が確認された。その後まもなく,〈はなし〉を〈軽口〉というようになるとともに,はなしのおもしろさを効果的に結ぶ〈落ち〉の技術もみがかれていった(後出〈落ちの型〉を参照)。…

※「《私可多咄》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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