世界大百科事典(旧版)内の秋田銅山の言及
【阿仁鉱山】より
…17世紀半ばに至って,金・銀山は衰退に向かったが,代わって,そのころから小沢山を中心に,有力な銅鉱脈があいついで発見され,以後銅山として稼行されることとなった。阿仁銅山は秋田銅山とも称され,18世紀初めには,2万0060個(2万0060ピクル=200万6000斤=32万0960貫匁=120万3600kg)の荒銅を生産したと記録されている。しかし,その後銅産額も低迷を続け,18世紀半ばには100万斤前後,幕末には70万斤前後にまで減少した。…
※「秋田銅山」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」