世界大百科事典(旧版)内の竹島事件の言及
【竹島】より
…これに対し朝鮮では竹島は自国の領土であると主張し交渉は決裂した。なお1836年(天保7)発覚した浜田藩の竹島事件は,浜田松原浦の廻船問屋会津屋八右衛門が,当時竹島と呼ばれていた鬱陵島を基地としての密貿易であったといわれる。【江面 龍雄】 1881年に朝鮮で独島の呼称ができたといわれ,灯台が置かれ,1906年には鬱陵郡守の報告書に〈本部所属独島〉と記述された。…
【浜田[市]】より
…浜田からの積荷は銑鉄,扱苧(こきそ),半紙,干鰯(ほしか),生蠟(きろう)などの浜田藩特産物で,揚荷は米,塩,砂糖などが主であった。1836年(天保7)密貿易が発覚した竹島事件の中心人物会津屋八右衛門は松原浦の廻船問屋であった。66年(慶応2)長州戦争に敗れ浜田藩は消滅し,石見の政治の中心は邇摩(にま)郡大森に移った。…
【浜田藩】より
…その代償として銑鉄,半紙,蠟などの特産物を奨励し,漁業振興を推進したが,たびたびの領主の更迭や凶作などで藩財政は極度に迫し,年貢先納や藩発起の頼母子講などにより危機の回避を図らなければならなかった。藩主所替にまで発展した天保の密貿易事件(竹島事件)も,藩財政の危機を背景としたものであった。藩校は松井氏時代に長善館,越智氏時代は道学館があった。…
※「竹島事件」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」