世界大百科事典(旧版)内の第2次護憲運動の言及
【憲政会】より
…つづく加藤友三郎,第2次山本権兵衛両内閣にも野党の立場を維持した。山本内閣末期ひそかに政友会総裁派と結び,24年1月,貴族院を母体とする清浦奎吾内閣が出現すると,分裂した政友会主流および革新俱楽部とともに護憲三派を結び,第2次護憲運動を展開した。その結果5月の第15回総選挙では151名を当選させ第一党となり,加藤高明が首相に指名され護憲三派内閣を組織した。…
【護憲運動】より
…しかし,民主主義勢力も十分ではなく,22年前後からサンディカリスムの影響もあって労働組合は普選に消極的となり,この問題での政党の比重が大きくなった。この年加藤友三郎内閣が成立すると憲政会,革新俱楽部(国民党の後身)を中心に憲政擁護大会が開かれ,第2次護憲運動が始まった。24年1月枢密院議長の清浦奎吾が貴族院を中心に超然内閣を組織すると,ジャーナリズムをはじめ清浦内閣反対の声が高まった。…
※「第2次護憲運動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」