世界大百科事典(旧版)内の第2次パリ条約の言及
【対仏大同盟】より
…第6次は,ナポレオンのロシア遠征の失敗ののち,13年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリア,スウェーデンなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第1次パリ条約(1814)によって解消した。第7次は,ナポレオンのパリ帰還(百日天下)に対して15年にイギリス,ロシア,プロイセン,オーストリアなどの間で結ばれ,ナポレオンの退位と第2次パリ条約(1815)によって解消した。【遅塚 忠躬】。…
【パリ条約】より
…同盟諸国はフランスに対する賠償要求を放棄し,条約の施行細目については2ヵ月以内にウィーンに国際会議を招集して決定することになった。(4)1815年11月20日のいわゆる第2次パリ条約。ウィーン会議開催中にナポレオンはエルバ島を脱出して決起したが百日天下で敗れ,その結果,改めてフランスと同盟諸国の間で結ばれた。…
※「第2次パリ条約」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」