世界大百科事典(旧版)内の織田敏広の言及
【尾張国】より
…1452年(享徳1)の斯波義健の死後,家督をめぐる義敏・義廉の争いは応仁の乱の一因となり,織田氏をはじめ在地勢力の分裂をひきおこした。75年(文明7)ころには越前・遠江を朝倉・今川の両氏に奪われた西軍の将斯波義廉が尾張に下り,織田敏広が守護代となった。しかし78年幕府は斯波義敏の子義良(よしすけ)を守護に,織田敏定を代に任じ,義廉・敏広らの討滅を命じた。…
※「織田敏広」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」