《聖ペテルブルグの最後》(読み)せいぺてるぶるぐのさいご

世界大百科事典(旧版)内の《聖ペテルブルグの最後》の言及

【プドフキン】より

…25年,最初の監督作品としてパブロフの条件反射学説の科学ドキュメンタリー《頭脳の機能的構造》をつくる。つづいてゴーリキーの小説をもとに,ダイナミックなモンタージュで知られる《母》(1926),エイゼンシテインの《十月》と並ぶ革命10周年記念映画《聖ペテルブルグの最後》(1927),モンゴル民族の解放闘争を描いた《アジアの嵐》(1928)によってソビエトのみならず世界映画の先頭に立つ。《母》の製作中に〈モンタージュ〉の理論的体系化に着手し(のち1928年にこれを改訂したものが《映画監督と脚本論》としてベルリンで出版された),28年,まだトーキーを製作していなかったソビエトでエイゼンシテイン,アレクサンドロフと連名の〈トーキーに関する宣言〉を発表して,新しい映画形式の進むべき道は映像と音の対位法的処理にあることを示した。…

※「《聖ペテルブルグの最後》」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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