聖護院洋画研究所(読み)しょうごいんようがけんきゅうじょ

世界大百科事典(旧版)内の聖護院洋画研究所の言及

【浅井忠】より

…02年帰国,同年新設された京都高等工芸学校教授に任ぜられ京都に移った。翌年聖護院洋画研究所を開き,06年には関西美術院を創立して,後進の指導など,京都洋画壇の中心として活躍した。研究所,美術院からは津田青楓,安井曾太郎,梅原竜三郎,黒田重太郎らが輩出し,浅井の教育家としての側面も看過できない。…

【画学校】より

…近世における諸派の工房や私塾的な絵画の技法習得に代わって,明治以後,西欧の影響による近代的な画学校が登場する。しかし,1876年創設の工部美術学校が短期間で閉校となったのち,官設の東京美術学校が89年に開校されるまでの明治前半期には,一連の私画塾が画学校の役割を果たした。川上冬崖,高橋由一の2人の洋画家はその先駆をなす。ともに幕府の開成所(蕃書調所の後身)画学局に学んだが,西洋画研究機関であったこの画学局は,明治期の画学校の前身ともみることができる。…

【関西美術院】より

…京都の洋画教育機関。1902年に京都高等工芸学校教授に任ぜられた浅井忠は,翌03年,田村宗立,伊藤快彦,都鳥英喜らの協力を得て聖護院洋画研究所を開いて後進の育成に乗り出した。やがて住友家の補助などにより岡崎町に教場を新築し,06年,改めて関西美術院として発足した。…

※「聖護院洋画研究所」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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