世界大百科事典(旧版)内の脇店八ヵ所米屋の言及
【米問屋】より
…関東米穀三組問屋は関八州と陸奥の9ヵ国からの商人米を担当し,堀江町・小網町一丁目・小舟町の河岸の3町に居住する米問屋が所属した。地廻米穀問屋も同じく関八州と陸奥からの商人米を引き受けたが,彼らは江戸市中に散在しており,また脇店八ヵ所米屋という名目で市中の小売業をも兼ねていた。これら米問屋の総数は,幕末期には300~400人程度とみられるが,この時期には地廻米穀問屋が最も多かった。…
【搗米屋】より
…搗米は精米する作業で,近世にはこれを専業とするものが成立し,搗米屋と呼ばれて米穀流通の最終過程を担当した。江戸には1744年(延享1)当時18組,およそ2100人の搗米屋が存在し,臼5500ほどを使って営業していた。このほか搗米を営むものとして大道搗が,1727年(享保12)当時1100人ほどいた。搗米屋,大道搗はともに玄米を河岸八町米仲買(25人),脇店八ヵ所組米屋(275人)から買い入れ,白米にして消費者に売っていた。…
※「脇店八ヵ所米屋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」