世界大百科事典(旧版)内の船木北浜の言及
【琵琶湖】より
…すでに15世紀,〈所〉の番頭――衆によって指導される堅田は小自治都市であったが,1468年(応仁2)の山門の大責による焼失後,〈切〉〈町〉を基礎に濠をめぐらし,〈堅田四方〉といわれた殿原衆,全人衆を含む全市民の自治がさらに強固に確立する。また安曇川の河口の中州に集住する殿原衆,百姓衆による〈四町場〉という町組を成立させた船木北浜,〈大門〉の間の湖辺に惣中が集住した菅浦も,堅田と同様の小都市ということができるので,大津,坂本はもとより,海津,塩津,長浜,粟津座の根拠地粟津,筑摩御厨の流れをくむ磯等々,琵琶湖縁辺には16世紀になると小都市が簇生(そうせい)したのである。堅田を盟主に一向宗を紐帯とする都市連合の生まれる形勢もみられたのであるが,織田信長,豊臣秀吉による一向一揆の弾圧はその道を完全に閉ざした。…
※「船木北浜」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」