世界大百科事典(旧版)内の菩提院行遍の言及
【太良荘】より
…36年(嘉禎2)の国検で保の田地は西郷24町7段120歩,東郷1町280歩と確定し,地頭給3町,公文給5段,馬上免は地頭の支配下に入った。一方,東寺供僧の再興を企てる菩提院行遍(ぼだいいんぎようへん)は,歓喜寿院を七条院から相伝した仁和寺御室の道深を通じて,その姉妹で若狭の分国主であった式乾門院に働きかけ,39年(延応1)保を歓喜寿院の便補保(びんぼのほ)とし,腹心の聖宴を保司に任じ,さらに同年11月,保を同院領として立券荘号することに成功する。40年(仁治1)道深は荘を東寺に寄進し,それを認める官宣旨が下り,東寺供僧領太良荘が成立した。…
【平野殿荘】より
…宣陽門院が父後白河法皇より伝領した庁分の荘園群の一つ。1239年(延応1)宣陽門院は灌頂の布施として仁和寺菩提院行遍(ぼだいいんぎようへん)に寄進,行遍はこれを新設の東寺常住供僧の供料荘と定め,以後,1569年(永禄12)までは東寺供僧領(十八口供僧方)の荘園であった。下司・惣追捕使の所職は曾歩曾歩(そふそふ)氏一族が相伝,曾歩曾歩氏は興福寺一乗院御房人でもあったため,興福寺の介入が頻発し,菩提院からの干渉もあって東寺供僧は支配の貫徹に苦しんだが,曾歩曾歩氏の内部対立に乗じ,その一部を悪党として排除し,1291年(正応4)荘務権を掌握した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」