世界大百科事典(旧版)内の落下閎の言及
【天文台】より
… 一方,中国でも,伝説上ではあるが,尭帝の時代に,恒星の南中を観測して1年の長さをきめていたとされている。下って前104年,前漢の時代に太初暦という暦が制定されたころ,落下閎(こう)という天文学者が,以後長く中国の伝統的天文観測具となった渾天儀を使って観測したという。その後,隋,唐,宋の各時代にも,この渾天儀が改良製作され,1260年になって元のフビライが皇位に就き,北京に天文台を建設したときに作られたものは今でも残っている。…
【二十八宿】より
… 二十八宿の距星については,成立の初期とその後とには異同があったが,前4世紀に魏の石申によって整備された方法を継承した《漢書》律暦志以後は,一貫して図に示したのとほぼ同じ星が採用された。戦国時代の石申らは二十八宿星を含む観測を行い,入宿度と去極度を観測し,漢代には太初改暦(前104)のときに落下閎らが赤道宿度を決定した。また唐の《開元占経》などに収録された値は前1世紀の前半の観測の記録をとどめたものとされている。…
※「落下閎」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」