朝日日本歴史人物事典 「藤原信西」の解説
藤原信西
生年:嘉承1(1106)
平安末期の政治家。中世国家の国制をつくる。父は大江匡房の『江談抄』を筆録した実兼。父が早く亡くなったため受領の高階経敏の養子となって世に出た。実名は通憲。苦労して幾多の学問を修め,やがて政治への意欲を深めたが,鳥羽上皇,待賢門院の判官代から日向守になった段階で出世の壁にぶちあたって出家を望んで藤原姓に戻り,少納言を最後にして出家を果たし,その身を利用して政治の中枢に踏み入った。法名は円空,のちに信西,少納言入道と称す。法体の鳥羽法皇に接近をはかり,妻の紀伊(藤原朝子)が後白河天皇の乳母となっていたことから,自身は乳父となってその皇位継承を求めた。近衛天皇が亡くなり,次の天皇が問題になったとき,鳥羽法皇の寵妃美福門院が養子の守仁親王(後白河天皇の実子,のち二条天皇)を推してくると,摂関家の藤原忠通と謀り,父を差しおいて子が帝位につくのは不当と訴え,ついに後白河の即位を実現させた。だが崇徳上皇の勢力もあり,皇位も間もなく譲らなければならない約束が美福門院との間にあったことから,政治的な敏腕を発揮することになる。 保元1(1156)年7月に鳥羽法皇が亡くなると,それを機会に源氏,平氏の武士を動員して崇徳上皇と藤原頼長の勢力を破り(保元の乱),死刑を復活して武士を斬首し,頼長の所領などを没収して天皇直轄領の後院領に寄せ,少ない荘園所領から出発した天皇の経済的な基盤の拡充に努め,後白河天皇の立場を不動のものとし,「九州の地は一人の有つところなり,王命の外,何ぞ私威を施さん」と,王権による日本国の支配を高らかに宣言して保元の新制を定めた。それに沿って記録所を置いて荘園を整理し,悪僧,神人の濫行を取り締まり,京都の整備や大内裏の再興を果たすなど,天皇の支配権の下に新たな体制を実行に移した。古い行事や公事の復興に努め,内宴を復活するなど芸能も再興した。ここに中世国家の基本的な枠組みは整った。しかし保元の乱後数年にして政敵に倒される。美福門院が守仁親王の即位を求めてきて後白河が退位したのがその始まりで,やがて上皇になった後白河が院近臣の藤原信頼を寵愛したことを中国の玄宗皇帝の長恨歌を絵巻にして諫めたものの,逆に信西によって近衛の大将の望みを拒否され恨んでいた信頼の謀反によって平治の乱が起こされ,信西は大和をさして逃げたが,途中で自殺に追い込まれた。<著作>『法曹類林』『本朝世紀』<参考文献>五味文彦『平家物語,史と説話』
(五味文彦)
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