藤原通憲(読み)フジワラノミチノリ

デジタル大辞泉 「藤原通憲」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちのり〔ふぢはら‐〕【藤原通憲】

[1106~1160]平安後期の公卿出家して法号円空、のち信西しんぜいと称し、僧の身で後白河天皇の腹臣として活躍平治の乱で捕らえられて処刑された。著に「本朝世紀」「法曹類林」などがある。

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精選版 日本国語大辞典 「藤原通憲」の意味・読み・例文・類語

ふじわら‐の‐みちのり【藤原通憲】

  1. 平安末期の公卿・学者少納言。父は実兼。母は源有房の娘。博学多才の人で、鳥羽・崇徳・近衛三代に仕えたが、宮仕少納言にとどまることを不満とし出家して、円空・信西と号した。妻の紀二位が後白河天皇乳母であったので、天皇即位とともに権勢を得、保元の乱後は近臣として活躍。内裏の再建、朝儀の復興につとめたが、学才に任せて権謀をほしいままにし、平治の乱で信頼勢に殺された。著書「本朝世紀」「法曹類林」「通憲入道蔵書目録」などがある。嘉承元~平治元年一一〇六‐五九

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「藤原通憲」の意味・わかりやすい解説

藤原通憲
ふじわらのみちのり
(?―1159)

平安後期の貴族で学者としても有名。出家して信西(しんぜい)と称す。父は実兼(さねかね)。一時、高階経敏(たかしなのつねとし)の養子となって高階姓を称したこともあったが藤原姓に戻った。諸道に優れた博学の人として知られたが家柄が低かったため栄進できず少納言(しょうなごん)で出家した。しかし、これが道心からでないことは出家にあたって詠じた自作の歌によって知られる。一方、妻の朝子(あさこ)(紀伊局(きいのつぼね))が後白河(ごしらかわ)天皇の乳母(めのと)であった関係から即位と同時に重用された。1156年(保元1)に起きた保元(ほうげん)の乱では、源義朝(よしとも)の策を入れて天皇方に勝利をもたらし、権勢を得て政治を左右するほどになった。その後、後白河院政になって黒衣姿で辣腕(らつわん)を振るい、近臣の藤原信頼(のぶより)と対立し、平清盛(きよもり)と結んで義朝を疎外した。59年(平治1)に平治(へいじ)の乱が起こると信頼、義朝らの追撃を受けて殺された。彼の学問は幅広く、そのことは『通憲入道蔵書目録』(『群書類従』所収)によってうかがい知ることができる。『本朝世紀(ほんちょうせいき)』『法曹類林(ほっそうるいりん)』などの編著者でもある。

[朧谷 寿]

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「藤原通憲」の解説

藤原通憲
ふじわらのみちのり

?~1159.12.13

平安末期の官人・学者。後白河天皇(上皇)の近臣。法名ははじめ円空,のち信西(しんぜい)。父は実兼(さねかね)。母は源有房の女。高階経敏の養子となったが,のち藤原に復した。藤原頼長と双璧をなす学者であったが,南家出身のため不遇で,官位は正五位下・少納言にとどまった。1144年(天養元)に出家したが,政界から引退はせず,妻の紀伊二位が後白河天皇の乳母であったため天皇即位後は重用された。56年(保元元)に保元の乱がおこると,源義朝の意見を容れて崇徳(すとく)上皇方を破った。58年に後白河院政が開始されると,平清盛と結んで権勢を誇った。このため同じく院近臣の藤原信頼と対立し,59年(平治元)平治の乱で義朝と結んだ信頼に殺害された。「本朝世紀」「法曹類林」などを編纂。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「藤原通憲」の意味・わかりやすい解説

藤原通憲
ふじわらのみちのり

[生]嘉承1(1106)
[没]平治1(1159).12.13.
平安時代後期の学者。実兼の子。法号,円空,のち信西。少納言,正五位下。妻が後白河天皇の乳母であったことから官位は上がり,保元の乱では同天皇方に属して信任を得,政治の実権を握った。平氏と結んで藤原信頼と対抗,これを押えたため,平治の乱で信頼方に殺された。博識多才で,藤原頼長と並ぶ学者であった。著書『本朝世紀』『法曹類林』など。また『信西入道蔵書目録』が伝わる。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「藤原通憲」の解説

藤原通憲 ふじわらの-みちのり

1106-1160* 平安時代後期の公家,学者。
嘉承(かじょう)元年生まれ。藤原実兼(さねかね)の長男。少納言で官途に見切りをつけ出家。鳥羽(とば)上皇,後白河天皇に近侍し,保元(ほうげん)の乱に勝利して政治的手腕をふるった。のち藤原信頼と対立,平治(へいじ)の乱で信頼方に捕らえられ,平治元年12月13日殺された。54歳。博学多才で,編著に「本朝世紀」「法曹類林」など。法名は信西(しんぜい)。

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旺文社日本史事典 三訂版 「藤原通憲」の解説

藤原通憲
ふじわらのみちのり

1106〜59
平安末期の公卿・学者
出家して信西と称した。実兼の子。保元の乱(1156)後,平清盛と結んで後白河上皇の側近として活躍。藤原信頼・源義朝に対抗したため,'59年平治の乱で殺された。著書に『本朝世紀』『法曹類林』『日本紀註』など。

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改訂新版 世界大百科事典 「藤原通憲」の意味・わかりやすい解説

藤原通憲 (ふじわらのみちのり)

信西(しんぜい)

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百科事典マイペディア 「藤原通憲」の意味・わかりやすい解説

藤原通憲【ふじわらのみちのり】

信西

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世界大百科事典(旧版)内の藤原通憲の言及

【白拍子】より

…田楽・猿楽と同時上演されることも多く,そのため次期の大和猿楽などに吸収,摂取された。起源については,《平家物語》巻一の祇王の章は,鳥羽院(1129‐56)のとき,島の千歳,和歌の前の2人が舞ったのが始まりとし,《徒然草》第225段では,藤原通憲(みちのり)(信西入道)が,磯の禅師(静御前の母)に舞わせたのを最初としている。出立(いでたち)は,扇をもち,水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし),白鞘巻(しろさやまき)の刀を差す男装であったとされる。…

【信西】より

…平安後期の官僚。俗名藤原通憲。父は一﨟の蔵人(六位蔵人の筆頭)実兼。…

【法曹類林】より

…平安時代末期に著された法制書。編者は藤原通憲(信西)。230巻とも730巻とも伝える大部の書であったが,今は巻192,197,200の3巻が残るにすぎない。…

【本朝世紀】より

…藤原通憲(信西)の編纂した平安時代の歴史書。1150年(久安6)鳥羽法皇の内命を受けて編纂に着手した。…

※「藤原通憲」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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