平安後期の貴族で学者としても有名。出家して信西(しんぜい)と称す。父は実兼(さねかね)。一時、高階経敏(たかしなのつねとし)の養子となって高階姓を称したこともあったが藤原姓に戻った。諸道に優れた博学の人として知られたが家柄が低かったため栄進できず少納言(しょうなごん)で出家した。しかし、これが道心からでないことは出家にあたって詠じた自作の歌によって知られる。一方、妻の朝子(あさこ)(紀伊局(きいのつぼね))が後白河(ごしらかわ)天皇の乳母(めのと)であった関係から即位と同時に重用された。1156年(保元1)に起きた保元(ほうげん)の乱では、源義朝(よしとも)の策を入れて天皇方に勝利をもたらし、権勢を得て政治を左右するほどになった。その後、後白河院政になって黒衣姿で辣腕(らつわん)を振るい、近臣の藤原信頼(のぶより)と対立し、平清盛(きよもり)と結んで義朝を疎外した。59年(平治1)に平治(へいじ)の乱が起こると信頼、義朝らの追撃を受けて殺された。彼の学問は幅広く、そのことは『通憲入道蔵書目録』(『群書類従』所収)によってうかがい知ることができる。『本朝世紀(ほんちょうせいき)』『法曹類林(ほっそうるいりん)』などの編著者でもある。
[朧谷 寿]
?~1159.12.13
平安末期の官人・学者。後白河天皇(上皇)の近臣。法名ははじめ円空,のち信西(しんぜい)。父は実兼(さねかね)。母は源有房の女。高階経敏の養子となったが,のち藤原に復した。藤原頼長と双璧をなす学者であったが,南家出身のため不遇で,官位は正五位下・少納言にとどまった。1144年(天養元)に出家したが,政界から引退はせず,妻の紀伊二位が後白河天皇の乳母であったため天皇即位後は重用された。56年(保元元)に保元の乱がおこると,源義朝の意見を容れて崇徳(すとく)上皇方を破った。58年に後白河院政が開始されると,平清盛と結んで権勢を誇った。このため同じく院近臣の藤原信頼と対立し,59年(平治元)平治の乱で義朝と結んだ信頼に殺害された。「本朝世紀」「法曹類林」などを編纂。
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…田楽・猿楽と同時上演されることも多く,そのため次期の大和猿楽などに吸収,摂取された。起源については,《平家物語》巻一の祇王の章は,鳥羽院(1129‐56)のとき,島の千歳,和歌の前の2人が舞ったのが始まりとし,《徒然草》第225段では,藤原通憲(みちのり)(信西入道)が,磯の禅師(静御前の母)に舞わせたのを最初としている。出立(いでたち)は,扇をもち,水干(すいかん)に立烏帽子(たてえぼし),白鞘巻(しろさやまき)の刀を差す男装であったとされる。…
…平安後期の官僚。俗名藤原通憲。父は一﨟の蔵人(六位蔵人の筆頭)実兼。…
…平安時代末期に著された法制書。編者は藤原通憲(信西)。230巻とも730巻とも伝える大部の書であったが,今は巻192,197,200の3巻が残るにすぎない。…
…藤原通憲(信西)の編纂した平安時代の歴史書。1150年(久安6)鳥羽法皇の内命を受けて編纂に着手した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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