世界大百科事典(旧版)内の藤原馬養の言及
【藤原宇合】より
…奈良時代前期の官人。馬養とも書く。藤原式家の祖。不比等の三男で弟の麻呂より1歳年長となる。広嗣,良継,田麻呂,百川,蔵下麻呂,清成,綱手らの父。716年(霊亀2)8月遣唐副使に任じられ(押使は多治比県守)翌年入唐した。724年(神亀1)には持節大将軍として蝦夷に出陣,726年10月知造難波宮事に任じられ難波宮造営工事を遂行した。731年(天平3)8月弟の麻呂とともに諸司の挙によって参議に昇り,732年8月西海道節度使に任じられ,《続日本紀》宝亀11年(780)7月丁丑条によると,その在任中に西海道諸国が対外防備にあたる際の警固のための式を作ったという。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」