世界大百科事典(旧版)内の豊後三流の言及
【浄瑠璃】より
…その後,門弟宮古路文字太夫が常磐津節を広め,富本豊前掾が富本節を語ったが,同系の清元延寿太夫も1814年(文化11)に清元節の流派を立てた。これを豊後三流という。やはり豊後系の鶴賀若狭掾の弟子鶴賀新内は妖艶な新内節の曲風を語った。…
【豊後節】より
…その一部は5世都一中の時代に江戸の一中節に移され,現存している。江戸では前記常磐津,富本,さらに富本から分派した清元を豊後三流といい,前記富士松薩摩の門から分派した鶴賀若狭掾,さらにそれらをまとめた新内節,のちに江戸に移された宮薗節を総称して豊後系浄瑠璃という。豊後系浄瑠璃の統領的な位置にあったのは,江戸では常磐津節,上方では宮薗節らしく,また江戸における鳥羽屋里長一派は,上方の春富士一派によく似ており,常磐津,富本,一中節などを弾いている。…
※「豊後三流」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」