世界大百科事典(旧版)内の越中公方の言及
【放生津】より
…93年(明応2)細川政元のクーデタで将軍を廃され幽閉された足利義材(よしき)(足利義稙(よしたね))は,同年6月に脱出して放生津の神保長誠(ながのぶ)のもとに拠り,再起を図って,98年まで滞在した。この間,義材の放生津御座所を越中御所,義材を越中公方と称し,放生津には幕府奉公衆や奉行人,さらに公家衆も多く下向し,また伊勢貞仍(さだより),飛鳥井雅康,宗祇らの文人も来訪,活況を呈した。そののち長誠の子神保慶宗は長尾為景を主力とする越後,越中,能登3ヵ国守護方同盟軍と対戦し,1519年(永正16)放生津は戦乱の被害をうけ,為景の退去とともに復興が図られたが,翌年為景の再攻で慶宗は敗死,放生津の再建も挫折した。…
※「越中公方」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」