(読み)り

世界大百科事典(旧版)内のの言及

【漢】より

…しかもこの傾向は,儒教の普及にともなって郷村における自給自足の平和な農村経済が賛美され,重農主義が強調されるようになったことにも対応するものであった。しかし商人の地主化は,土地問題をひきおこし,漢の郷里制社会を崩壊せしめる誘因になったばかりか,ひいては漢帝国を滅亡に追いこむことになったのである。
[郷里制社会と豪族]
 漢代の郷里制社会をみると,当時の民の大多数を占める農民は郷(きよう)とよばれる周囲を牆壁(しようへき)でかこまれた集落の中に,里(およそ100戸)を単位として集団居住し,牆壁の外部に広がる各戸の農地を耕作して生活していた。…

【郷里制】より

…郷には三老・嗇夫(しよくふ)・游徼(ゆうきよう)がいて,三老は祭祀や自治的諸慣習の指導者であり,嗇夫が裁判と徴税を,游徼が警察事務をつかさどり,亭には亭長がおかれた。これら自然集落の郷や亭の城内はいくつかの里に区画され,それぞれの里は約100戸からなり,里正や父老がいて税役の徴収に責任をおわされ,郷の嗇夫の監察をうけた。郷は自治的集落であった点で,国家権力の末端機構たる県と性格を異にしていた。…

【村】より

…中国において,三国時代(3世紀)ころから使用されはじめた集落を意味する語。それ以前の集落名称として一般的であったのは里であり,それが亭や郷に編成されて村落組織を形成していたが(郷里制),後漢時代中期以後の社会の変動や戦乱などによる人口移動が原因となって,里や,里を中心とする村落組織がくずれはじめ,新たに小集落が随所にあらわれるようになる。それらをよぶ名称として用いられたのが村である。…

【明】より

…モンゴル高原では,内部対立があってエセンが殺され,オイラート部に代わってタタール部が勢力を伸張し,天順以降しばしば明の北辺に侵入した。これに対して明は万里の長城を修築し,九辺鎮とよばれる守備隊を整備するなど,もっぱら防衛を事とした。今日残っている長城は,ほとんどこの時代に修築されたものといわれる。…

【村】より

…華北では,やがてむらは大平原に広まっていくが,河川の発達した南部では今も昔も河川沿いにむらがある。最近長沙から出土した前2世紀の地図をみると,曲がりくねった川に沿って,点々と里と称するむらが存在する。 現代では華北地方のむらは,飲料水や灌漑水を井戸水に頼り,耕地以外に不毛地や原野が入り混じっているために,微高地(自然堤防上など)に密集した数十~200戸程度の集村が,華北大平原のあちこちに散在しているのが普通である。…

【里甲制】より

…明朝は建国後まもなく戸帖の制によって人民の戸籍を定めていったが,また当時江南地方で行われていた小黄冊図の法,すなわちほぼ100戸を1単位とする村落組織などを利用して農村の組織化をすすめた。そしてこれらの制度を整備,画一化して1381年(洪武14)全国的に実施されたのが賦役黄冊の編造と里甲制の制定であった。この制度は徭役負担の義務をもつ110戸を基準として1里を編成し,丁糧の多い富裕戸10戸を里長戸,残りの100戸を甲首戸とし,これを10戸ずつ10甲に分けた。…

【隣保制】より

…《管子》にも10家を什となし,5家を伍となし,什伍みな長あり,と言及され,《商君書》にも軍隊組織で5人組の伍が重要な機能を果たす記事が見える。 《続漢書》百官志に〈民に什伍あり,善悪をもって告ぐ〉と記され,南朝では同伍内の犯法に連座する場合,士の身分の者や奴婢の取扱いをどうするか論議されていて,五家で組織する保が郷里内で大きな役割を担っていた様相がうかがわれる。北朝の北魏で486年(太和10)に施行された三長制は,約1世紀にわたり均田・均賦制と組み合わせて警察・徴税機能の強化に成績をあげた。…

※「里」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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