世界大百科事典(旧版)内の鈴木文平の言及
【見沼代用水】より
…その管理は四川奉行(しせんぶぎよう),四川用水方普請役が担当した。【大谷 貞夫】
[見沼通船堀]
見沼代用水路開削後,井沢弥惣兵衛の手付鈴木文平とその実兄紀州和歌山元郷士高田茂右衛門の両人は,代用水路への通船御免の願書を幕府に提出し,1731年5月,老中松平乗邑(のりさと)の許可を得て見沼通船事業に着手した。両人は同年,代用水路と中悪水路(芝川)とを結ぶ見沼通船堀(横堀ともいう)を構築して須戸橋(現,行田市地内)―柴山伏越(南埼玉郡菖蒲町)―見沼通船堀(浦和市大間木)―芝川―荒川―江戸市中永代橋筋・神田川筋を結ぶ舟運路を開設した。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」