世界大百科事典(旧版)内の長崎輸出銅の言及
【銅座】より
…鎌倉時代末以降駕輿丁座(かよちようざ)の中にあった銅類販売商人の仲間を銅座と呼んだが,一般には江戸時代の幕府の銅専売機関をいう。 1697年(元禄10)幕府は長崎輸出銅の定高(さだめだか)を890万2000斤と定めたが,このほかに国内需要に応ずるための地売(じうり)銅約400万斤を必要としたため,年間1300万斤ほどの銅産が確保されなくてはならなかった。これにたいし銅山は衰退の兆しを示しはじめたので,1701年,幕府は輸出銅確保のために,銀座加役として大坂に銅座を設け,産銅の独占をはかった。…
【別子銅山】より
…しかし,別子の産銅は18世紀に入りしだいに減り,1718年(享保3)600tを割り,立川併合後も明治以前には年産600tをわずかに超えたのは数ヵ年である。別子銅は大部分長崎輸出銅にあてられ,54年(宝暦4)からは秋田・南部銅とともに輸出銅を分担した。 明治維新にあたり別子,立川は幕領のため,住友はその経営権を失おうとしたが,ようやく免れた。…
※「長崎輸出銅」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」