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長野義言 ながの よしとき

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美術人名辞典の解説

長野義言

国学者・彦根藩士。伊勢国長野次郎祐の弟。号は桃舎。彦根藩主井伊直弼に聘せられ藩士となり、弘道館国学方となる。万延元年直弼の歿後もその遺策の公武合体のために奔走した。著書に『玉の緒未分櫛』『活語初の栞』等多数ある。文久2年(1862)歿、49才。

出典|(株)思文閣
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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

長野義言 ながの-よしとき

長野主膳(ながの-しゅぜん)

出典|講談社 この辞書の凡例を見る
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書籍版「講談社 日本人名大辞典」をベースに、項目の追加・修正を加えたデジタルコンテンツです。この内容は2015年9月に更新作業を行った時点での情報です。時間の経過に伴い内容が異なっている場合がございます。

朝日日本歴史人物事典の解説

長野義言

没年:文久2.8.27(1862.9.20)
生年:文化12(1815)
江戸後期の国学者。彦根藩(滋賀県)藩士。通称主馬,のち主膳,号桃廼舎。義言は名。伊勢国の出身とされるが出石藩(兵庫県)仙石左京の子,肥後の阿蘇大宮司の一門長岡家の出など別説もある。本居宣長・春庭の学を慕い,天保12(1841)年近江国坂田郡志賀谷村(滋賀県坂田郡山東町)に高尚館を開き,彦根藩井伊直弼と知り合う。一時京都に出て堂上方に出入りもした。嘉永5(1852)年,藩主となった直弼に招かれ藩校弘道館国学方となり,のち系譜方を務めた。直弼が大老となるとその側近として活躍,尊攘派志士弾圧に力を尽くした。文久2(1862)年5月井伊直憲より加増されたが,同年8月24日,事に座して禁固処分に付せられ,27日斬刑を受け,家名断絶された。

(飯倉洋一)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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大辞林 第三版の解説

ながのよしこと【長野義言】

1815~1862) 江戸末期の国学者。伊勢の人という。通称、主膳。井伊直弼なおすけの国学・和歌の師、のち側近として京都にあって廷臣間を種々画策し、安政の大獄に深くかかわった。直弼死後も公武合体に奔走したが、彦根藩内の政変で斬罪に処せられた。著「古学答問録」「沢能根世利さわのねぜり」「歌の大武根おおむね」など。

出典|三省堂
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世界大百科事典内の長野義言の言及

【長野主膳】より

…幕末の政局に井伊直弼の懐刀として活躍した国学者。諱(いみな)は義言(よしとき),号は桃廼舎(もものや),主膳は通称。伊勢国の生れといわれるが明らかではない。1842年(天保13)初めて直弼に会い,国学および和歌の師となる。直弼が彦根藩主となって2年後の52年(嘉永5),二十人扶持で彦根藩に召し抱えられ,国学方,ついで系譜編集用掛となった。58年(安政5)初めからは,主として京都にいて関白九条尚忠(ひさただ),九条家家士島田左近と結び,直弼の意を体して活躍した。…

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