世界大百科事典(旧版)内の閔氏政権の言及
【壬午軍乱】より
…その結果,旧式の軍人たちの不満が給米の不正支給によって爆発し暴動となった。大院君はこの暴動を利用して,閔氏政権の転覆と日本公使館の襲撃を図った。彼は,1880年代に入って開始された閔氏政権の開国政策を覆し,鎖国攘夷政策に戻そうとしたのである。…
【閔妃】より
…翌年,王子坧(のちの純宗)を産んで基盤をさらに固め,閔妃とその一族は政権の中枢を独占する。閔氏政権がすすめた開国政策は国内にさまざまな対立を生み出し,82年には壬午軍乱がおこった。このとき閔妃は変装して王宮を脱出したが,清国軍が介入して大院君を天津に連れ去ると,再び勢力を回復した。…
【李朝】より
…大院君政権はある程度,両班の封建的特権の排除につとめ,また1866年と71年の欧米の武力侵略を撃退したが(洋擾(ようじよう)),しかし他方では王権強化のためにさまざまの重税を課したり,悪貨を鋳造したりしたので,民衆との矛盾を深め,その後も民乱を頻発させることになった。 1873年,守旧派の反撃をうけて大院君は失脚し,王妃(閔妃(びんひ))一族を中心とする閔氏政権が登場するが,守旧派に基盤をおく閔氏政権は76年に日本の軍事的圧力に屈して不平等条約である日朝修好条規を締結して開国し,以後,朝鮮は日本や欧米の半植民地に転落していくことになる。閔氏政権は82年の壬午軍乱,84年の甲申政変で倒されるが,いずれも清国の支援ですぐに復活し,94年,日本軍によって倒されるまで約20年間続いた。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」