朝日日本歴史人物事典 「雑賀孫一」の解説
雑賀孫一
戦国時代の紀伊一向一揆雑賀衆の指導者。実名は鈴木孫一重秀。雑賀衆は紀ノ川河口を本拠とする鉄砲武装の強力集団で,織田信長が石山本願寺を攻めた際には長期にわたって本願寺を支えた。ルイス・フロイスは雑賀衆について「富裕な農民」で,船の技術にも長けていると記している。永禄5(1562)年の起請文に「十ケ郷鈴木孫一」「十ケ郷孫一」とある。同3年紀伊守護畠山高政の軍勢中に鈴木孫一重意とあるのは誤記か。天正4(1576)年,信長は本願寺を兵糧攻めにするため海陸の要路を封鎖するが,同年7月孫一率いる雑賀衆は毛利水軍と協力して海上からの兵糧搬入に成功。5月に討ち取られた「大坂之左右大将,サイカノ孫一」なる人物は別人であった。翌年信長は宮郷,中郷,南郷の3組を味方にして雑賀荘,十ケ郷を降伏させるが,孫一らは信長帰陣直後に再度蜂起。本願寺と信長の和睦に際し「鈴木孫一重秀」ら雑賀衆5名が誓詞を差し出している。信長の死後は豊臣秀吉に仕え,同13年の紀州攻めでは秀吉の案内役となった。小田原攻めの文書に「すゝき孫一」「鈴木孫一郎」とあるが,重秀かどうかは不明。関ケ原の戦の際,豊臣秀頼の奉行衆から感状を受けた鈴木孫三郎,また水戸徳川家家老,鈴木孫三郎重朝は一族中の別人か。<参考文献>鈴木真哉『紀州雑賀衆鈴木一族』
(石田晴男)
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