世界大百科事典(旧版)内の霊裕の言及
【末法思想】より
… 北周の武帝による残酷な廃仏によって法滅の惨禍を目前にみた仏教徒は,末法の到来を現実感をもって意識し,仏典を石に刻し,教法を永遠に伝えようとする護法の刻経事業をもおこした。北斉仏教界の指導者であった霊裕(518‐605)は,589年(隋の開皇9)から河南省の宝山に石窟を造営して《大集月蔵経》などの石経を刻し,静琬(じようおん)(?‐639)は隋の大業年間(605‐617)に発願して,煬帝(ようだい)の皇后蕭氏と弟の蕭瑀(しようう)らの援助をうけつつ,北京南西郊の房山(ぼうざん)に《大蔵経》全部を碑石に刻さんとした。特に房山の刻経事業は,唐,遼,金代をへて明末にまで継承され,石室の壁面はいうに及ばず,碑石に刻された経版は地下の洞穴内などに秘蔵されてきたのである。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」